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情報:農業と環境 No.81 (2007.1)
独立行政法人農業環境技術研究所

本の紹介 219: 論文捏造、 村松 秀 著、 中央公論新社 (2006) ISBN4-12-150226-4 C1236

ソウル大学のヒトクローン胚をはじめ、日本でも理研、阪大、東大と、捏造(ねつぞう)(あるいは限りなくそれと疑わせる)事件が相次ぎ、科学の不正が大きな社会問題となっている。そうした一連の事件の中でも最大規模のものといえば、米国のベル研究所で起きた論文捏造事件であろう。

ドイツ生まれの物理学者、ヘンドリック・シェーンは、ドイツのコンスタンツ大学で博士号を取得後、1998年、27才の時に、米国が世界に誇るベル研究所に移った。そして2000年、シェーンは“超伝導”の分野で世界の研究者を身震いさせるような発表を行った。そして、ベル研究所を解雇されるまでの5年間に、ネーチャー7本、サイエンス9本をはじめ、63ものトップネームの論文を発表し、それらは世界の科学者からバイブルと呼ばれるまでになっていく。

そんな大発見である。世界の研究者たちは興奮に胸をふるわせながら、大きな夢をもって、続々と追試験に乗り出した。しかし、原理は簡単に見えながら、実際に試料を扱ってみるときわめて難しく、発表から1年経っても、だれも追試験に成功しなかった。それにもかかわらず、科学者たちは失敗の原因をあれこれと悩みながらも自分の側に原因があると考えるばかりで、捏造を疑うことはなかったという。なぜか。

多くのノーベル賞受賞者を輩出しているベル研究所、共同研究者として論文に名を連ねていた上司の世界的に著名な科学者、それにネーチャー、サイエンスのブランド力等々、多くの要因が重なったと考えられるが、それにしてもここまで大きな事件がなぜ起こったのか、謎は残る。捏造が明らかになったいま、共同執筆者、研究所、それに誤った論文を多数掲載した一流科学雑誌は、自らの責任に関して多くを語ろうとしないという。

米国ではバイオの分野においては、「研究公正局(ORI)」という公の調査裁定機関があり、バイオ大国アメリカにおける不正防止の番人としての役割を果たしている。これは、バイオ研究の場合、不正行為が人間の生命や健康に直接影響を及ぼしかねないこと、また、生物学のデータにはどうしても曖昧(あいまい)さがあるため、その中で捏造が行われても見えにくいという側面があるためという。それに対して物理学のようなハードサイエンスでは、不正は起こりえないと考えられていた。しかし、そこで世紀の不正が起こったのである。

科学者の不正に関する一連の事件が、科学の世界に問うているものは大きい。科学的好奇心から悠長(ゆうちょう)に取り組んでいた時代から、この半世紀の間に科学のあり方が劇的に変化し、科学者ももはや純粋に科学を追究していればよい、という状況ではなくなっている。「今や研究者自身の明日の生活を賭けた殺伐とした研究体制が生じている」と著者は言う。しかし、科学界の研究のあり方は旧態依然としたままで、科学社会の仕組みが追いついていないと指摘する。不正を、一部の心ない研究者が犯した罪と片付けることはできない。社会の信頼を失った科学は、崩壊すらしかねない。

不正の問題は、バイオや超伝導だけの話ではない。環境や農業の研究は、バイオよりもさらに「ソフト」である。厳密な証明や再現は困難であるし、一度発表された説を科学的に否定するのも容易ではない。また、科学的な方法論すら十分確立していない分野も多いといえよう。「不正行為(misconduct)」とまでいかなくても、「間違い(mistake)」が起こる可能性はきわめて高い。

本書はNHKの番組、「史上空前の論文捏造」と同様の内容を書き下ろしたものである。ドキュメンタリーを見ているようなストーリーの展開に、引き込まれていく。科学のもつ危うい一面を考える上で、おすすめしたい一冊である。

目次

第1章 伝説の誕生

第2章 カリスマを信じた人々

第3章 スター科学者の光と影

第4章 なぜ発見できなかったのか——担保されない「正しさ」

第5章 そのとき、パトログは——研究リーダーの苦悶

第6章 それでもシェーンは正しい?——変質した「科学の殿堂」

第7章 発覚

第8章 残された謎

第9章 夢の終わりに

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