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農業と環境 No.128 (2010年12月1日)
独立行政法人農業環境技術研究所

本の紹介 298: 農耕社会の成立(シリーズ日本古代史1)、 石川日出志著、岩波書店(2010年10月) ISBN978-4-00-431271-0

縄文時代と弥生時代は土器でみるように文化的にも明確に異なる時代であり、弥生時代は稲作の伝来と共に、大陸から新たに渡来した人々を中心に、縄文時代とは異なる人々が築いた文化であるとするのが一般的な説ではないだろうか。だとしたら、縄文時代を担った人々はどこへ行ってしまったのだろうか。そもそも日本人とは、いったい何であろうか。著者は考古学を中心に時代を検証し、弥生時代は縄文時代の後継者で、縄文時代の延長線上に弥生時代があるとする。

日本列島に人類が住みついたのは、正確には何万年前ころになるのだろうか。約1万年前までの更新世の時代は、寒暖を繰り返しながらも寒冷な気候が支配的であった。中でも約2万年前ごろはもっとも寒冷で(最終最大氷期)年平均気温は今よりも6〜7℃低く、海水面も120mあまり低下、宗谷海峡は陸地であった。そのころの人々は、食糧資源は北からくるマンモス、ヘラジカ、バイソン、それに南からくるナウマンゾウ、オオツノジカで、狩猟を基本にしながら合わせて植物資源食料も採取していたというが、気候から植物資源は限られていたであろう。

最終氷期が終わる約1万年前ころ、気候は温暖となった。縄文文化を、「更新世から完新世(約1万年前以降)にかけて起きた日本列島における環境・生態的変動に対し、当地域に住む人類が適応した文化」 と著者は定義する。温暖化により海水面は上昇、約6500年前(縄文前期の前半)のピーク時には、関東地方も内陸まで海が侵入していた。照葉樹林帯が関東や北陸の沿岸部まで北上し、温暖帯落葉樹林も東日本内陸部から東北日本まで広がった。ナウマンゾウ、オオツノジカも更新世末期には絶滅し(狩猟しつくした?)、縄文期には木の実類を主要なカロリー源とし、魚介類も食していた。土器を使って煮る技術も発達し、クリは移植・管理されていた。地域資源を持続的に利用していたのである。

住居は旧石器時代にはテントのような移動できるものであったのに対し、縄文時代の竪穴住居が各地で見つかっており、数年にわたって1か所にとどまって居住し、その周囲数キロの範囲内の資源を持続的に利用していたと考えられる。縄文晩期の後半には、ムギ、アワなどの雑穀類も遺跡から見つかっており、農耕の先駆けといえるかもしれない。

縄文時代も後晩期になると大規模集落は減り、小規模集落が圧倒的になる。人間集団規模と領域内資源とのバランスが崩れ、領域内の産出する物質だけでは生活維持が困難になったためであり、そのきっかけとなったのが寒冷化と考えられる。

紀元前1000年紀前半には、灌漑(かんがい)をともなう稲作が導入され、本格的な農耕社会が成立する。稲作が食糧獲得活動の根幹となり、社会の仕組みも大きく変貌(へんぼう)していく弥生時代のはじまりである。(弥生時代という時代名称は「弥生式土器が使われた時代」を指し、1884年に文京区弥生町向ヶ丘貝塚から1個の壺(つぼ)が発見されたのが発端であるが、1893年に農業環境技術研究所のルーツである農商務省農事試験場が北区西ヶ原に設立された際に3点の土器が出土し、これを弥生町の土器と同類と認めたことで弥生式土器の名称がついたという。)

弥生式文化人は海を越えてきた人々というイメージが埋め込まれているが、「弥生時代を縄文時代と画すのは、灌漑稲作の開始というもっとも基底的な要素をもって定め、社会や祭祀(さいし)の質的な変化はそれに続いて地域ごとに状況を変えながら徐々に進行した、とみるほうが現実のデータとよく整合する」 という。すなわち、弥生時代の社会変化はただちにもたらされたのではなく、穏やかにもたらされ、波状的に展開し、その展開の仕方は地域ごとに様相を異にし、それは縄文時代の地域ごとの特色が弥生時代に引き継がれたからにほかならないと考える。

灌漑水田の造成には集落構成員による集中的な労働力投入が必要で、水田経営上も常に水利をめぐる利益調整が必要となる。こうした集落内・集落間の調整が、やがて社会の質的な変化をもたらす契機となった。

「おわりに」で、縄文時代から弥生時代への推移のようすがようやく解明に向かいつつあり、かつてのように縄文文化と弥生文化の担い手がまったく異なる人間集団だとはいいがたいこと、弥生時代といっても地域や時代によって大きく異なり、それぞれ刻々と変貌していたことなどから、はたして「弥生時代」という時代概念は有効なのか、「弥生文化」とひとくくりにできるのかと、著者は疑問を呈する。弥生時代は前後の旧石器時代・縄文時代・古墳時代の3時代と比べて、「地域ごとの文化的差異が大きく、どこでも刻々と社会変遷をとげるところに弥生時代の際立った特徴が」 あり、「縄文時代文化という森林性旧石器時代文化から、古代史の世界ではヤマト王権の時代ともいう古墳時代の政治的社会への、変化の過程として弥生時代を理解するのがもっとも穏当であろう」 と結論する。

目次

第一章 発掘された縄文文化

1 「日本列島の歴史」のはじまり

2 移動から定住へ

3 集落と相互の交流

4 縄文時代はなぜ終わったか

第二章 弥生時代へ―稲作のはじまり

1 「初めに板付ありき」

2 米はどこから来たか

3 稲作と米食の技術

4 生業の複合性

5 「弥生時代」を定義する

第三章 弥生社会の成長―地域ごとの動き

1 大陸からきた文化要素

2 弥生集落の成長―北部九州

3 集団間・集団内格差の拡大―北部九州

4 銅鐸祭祀の発達―近畿周辺

5 環濠の採用―中部・関東

6 色濃い縄文の伝統―東北

第四章 弥生文化を取り巻く世界

1 歴史の道の複線化

2 卓越した漁撈の民―北海道続縄文文化

3 サンゴ礁の民―南島後期貝塚文化

4 朝鮮半島と東アジア

第五章 生まれいづる「クニ」

1 金印がつたえる世界

2 「祭祀」と「墓」の変質

3 日本海の「鉄器」文化

4 考古学がみる「邪馬台国」

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