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農業と環境 No.139 (2011年11月1日)
独立行政法人農業環境技術研究所

本の紹介316:もうダマされないための「科学」講義、 菊池誠・松永和紀・伊勢田哲治・平川秀幸 著、 飯田泰之+SYNODOS 編、 光文社(2011年9月) ISBN-978-4-334-03644-7

東日本大震災と原発事故以降、科学のあり方、科学と社会の関係が大きく問われている。「政府見解」 や 「専門家の結論」 に対する信頼が大きく揺らいでいる一方で、あやしげな情報や商品が氾濫(はんらん)している。たしかに放射線の影響低減や放射性物質の除染をうたっている技術や商品の中には、荒唐無稽(こうとうむけい)なものも少なくない。また、明確な科学的根拠に基づいたものの中にも、効果や適用(可能)場面を明らかに誇張していることがある。マスコミはそれを知ってか知らないでか、単純化して報道する。

取り組むべき課題は数多いが、その中で、いまとくに問われているのは、「コミュニケーション」 の問題だという。

第1章は 「科学と科学でないもの」 である。両者を明確に線引きできるような便利な基準はなく、両者の間にはどちらともつかないグレーの領域が存在する。そのことから、両者は相対的なもので科学と非科学に違いはなく、したがって 「(非科学的なものも)否定できない」 という弁解を生んでいるが、そうした極端な相対主義的な立場は否定する。そして、「明らかな科学」 と 「明らかな非科学」 があるのだから、そうした明確なものについて考えればよい。グレーなものについては、いずれ決まるときに決まるものであるのだから、いま無理にどちらかに分類する必要はないとする。割り切った現実的な基準といえよう。

科学に対しては、白か黒かをはっきりと決めてくれるというイメージがあるが、科学は結果が絶対というのではなく、科学で有効なのは科学的な方法論や考え方である。科学的知識の中には今後変わりうるものも多く、白黒をはっきりとつけてくれるニセ科学の方が一般の人の科学イメージに近い。ニセ科学に関しては、受け入れる個人の責任との考えもあろうが、意味のないものに金や時間を費やすことになり、個人の損失よりも社会的損失が大きいと指摘する。

第2章 「科学の拡大と科学哲学の使い道」 では、「ローカルな知」 と 「疑似科学」 について、科学哲学から論じている。ローカルな知とは、「ある特定の領域で用いることのできる、実際の経験の中で見いだされてきた知、のようなニュアンスのある言葉」 であるという。たとえば 「保全生態学」 の分野は 「生態学」 とは異なり人間の活動そのものも研究の対象で、そこでは現地に住んでいた人たちがもっていた 「伝統的生態学的知識」 を使う研究もおこなわれているという。これは、従来の科学の範囲には入らない。

著者は、「科学は今ある手法の中から、最も信頼できる手法を用いて情報を生産するような、知的な営み」 であり、一方疑似科学は、「信用できる方法論があるのにそれを使わないようなもの」 とする。すなわち、科学であるかないかの判断として、内容よりは、どういう態度をとってきたかということが重要視されるべきという。

第3章 「報道はどのように科学をゆがめるのか」 では、科学的に不確かな情報や誤った情報を流し、社会に混乱を招いている現状を批判する。とくに食や農業のような暮らしと密接に結び付いた科学については、社会部や経済部の記者が平気で記事を書いてしまい、お粗末な情報が氾濫(はんらん)する結果になっている。その結果、実際は複雑である現実の農業や食の問題の記事が、あの食品は良い、この食品は悪いといった、単純な二元論、二分法で書かれ、「社会的に大きなコスト負担を強いられたり、公平性が失われたりする事態が起きている」 とする。具体的に、「エコナ」の問題と遺伝子組み換え問題で解説している。こうした問題に共通して言えることは、「自然は安全で問題ないが、人工物、高度な科学技術が作り出したものはとんでもないことを引き起こす」という予断や、科学の不確実性に対する知識や理解の決定的不足が市民や報道機関にあることを指摘する。ここでも、明確な答えがあるのが科学だという、学校教育の中で作られてきた科学のイメージが影響している。

第4章は科学技術コミュニケーションについて論じている。

英国では、1980年代から1990年代に起きた BSE 問題で、政治と科学に対する不安が広がるという 「信頼の危機」 が起こった。それを契機に、それまで一般市民の科学理解増進を目的とした科学技術コミュニケーションは、科学者、政府、産業界、一般市民の間の双方向的な対話や、政策決定への参加を重視する「公共的関与」というスタイルのコミュニケーションを促進する方向へと、大きく転換した。

日本では、1995年から2000年代前半まで、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、JCO 事故など、政府や科学、技術に対する信頼を大きく揺さぶる事故が続いて起こり、日本版 「信頼の危機」 となった。この事態に際して、日本でも「対話・参加の促進」「専門性の民主化」という動きが生まれる。しかし、「理科離れ」 というもう一つの危機が1980年代に現れ、その影響が強かったこともあり、日本では科学技術理解増進を目的とした 「生ぬるい」 動きが2000年代になっても続くことになる。

3月11日を経験したいま問われているのは、研究開発の方向性や成果の利用のしかた、それに伴うリスクの管理の方法を、だれがどのように決めるべきなのかという、科学技術のガバナンスの問題であると述べている。

付録 「放射性物質をめぐるあやしい情報と不安に付け込む人たち」 では、デマによく使われるパターンを、放射線に関するものを例に説明している。

目次

1章 科学と科学ではないもの (菊池誠)

2章 科学の拡大と科学哲学の使い道 (伊勢田哲治)

3章 報道はどのように科学をゆがめるのか (松永和紀)

4章 3・11以降の科学技術コミュニケーションの課題 (平川秀幸)

付録 放射性物質をめぐるあやしい情報と不安に付け込む人たち (片瀬久美子)

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