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農業と環境 No.155 (2013年3月1日)
独立行政法人農業環境技術研究所

報告書の紹介: 水田における無脊椎動物の現状と動向

Invertebrates in Rice Production Systems: Status and Trends,
Commission on Genetic Resources for Food and Agriculture,
FAO Background Study Paper NO. 62
(2012年11月)

戦後、高収量品種の導入と化学肥料の大量投入によってコムギの飛躍的増産に成功した 「緑の革命」 は、次いでアジア地域の水稲生産の向上に向けられた。1960年に国際稲研究所(IRRI)で育成された多収品種IR8は水稲生産量を増大させ、その後、IR8に続いてIRRIで育成された一連の品種の導入は、アジアの稲作において大幅な生産増大をもたらし、食料安全と生活の改善に大きく貢献した。ところが一方で、肥料、農薬、灌漑(かんがい)設備、農業機械などを多用するこの新しい栽培技術は、水や土壌など貴重な農業資源を浪費し、農業の持続性を損なうとともに、トビイロウンカに代表される新たな害虫の大発生という問題を引き起こした。

このような事態を受けて、国際連合食糧農業機関(FAO)は、農業の新たなパラダイムとして持続的生産の必要性を提唱した。そして、FAO食料農業遺伝資源委員会(Commission on Genetic Resources for Food and Agriculture)は、農業の持続性が生物多様性に依存していることを勘案し、水田における無脊椎(むせきつい)動物(そのほとんどは昆虫類である)の働きの実態を明らかにするための研究をIRRIに要請した。

その研究の成果がここに紹介する報告書である。その概要について簡単に紹介することにしたい。

この報告書は、まず 「緑の革命」 によってどのような事態が起こったのか、その歴史的背景を記述している。従来から行われてきた伝統的な水稲生産システムにおいては、生産性の低い在来品種が栽培され、肥料の投入量も少なく、自然の生態系機能や生態系サービスに依存する形で栽培が行われてきたが、1960年代に入ると、高収量品種の導入、無機肥料の多投入、殺虫剤の使用が1つのパッケージとして組み込まれた農業が営まれることとなった。これがいわゆる 「緑の革命」 である。「緑の革命」 は飛躍的な食料の増産、食糧安全、暮らしの改善をもたらしたが、農家は定められたスケジュールに従って殺虫剤の散布や肥料の投入を行うようになった。しかし、殺虫剤の使用は、「熱帯地域のコメ生産は害虫によって制限されており、殺虫剤の使用によって害虫は駆除される」 という仮定に基づいた行為であった。そして、それまで栽培されていた多くの伝統的品種は、大量の肥料を必要とするわずか数種類の高収量性品種に取って代わられることとなった。

その結果として起こったことは、トビイロウンカを主体とする害虫の大発生であった。この害虫に対しては、その後いくつかの抵抗性品種が開発されたが、トビイロウンカは数年のうちにそれらの抵抗性品種をも加害できる系統を発達させた。

この事態に直面して、害虫防除の専門家は、殺虫剤のみに頼らず、さまざまな手法を組み合わせて害虫を防除する総合的病害虫管理(IPM)の考えを採用するようになり、FAOの指導によって農家への教育訓練プログラムなども盛んに行われることとなった。

その後、1990年代初めころにはトビイロウンカに有効な新たな殺虫剤が開発され、害虫問題は解決するかと思われた時期もあったが、1990年代終わりころになると、またもや害虫は殺虫剤抵抗性を発達させ、再びトビイロウンカやセジロウンカの大発生が起こることとなった。

なぜこのようなことが起こったのか。それは 「緑の革命」 が害虫の構成に大きな変化をもたらしたからである。すなわち、殺虫剤は害虫を減らすために散布されるものであるが、実際には害虫だけではなく、害虫の捕食者や寄生者など土着の天敵も殺してしまうこととなり、その結果として害虫が大発生した。水田およびその周辺にはさまざまな生物、とくに膨大な数の無脊椎動物がそれぞれの生息場所をもって生きている。これまでの40年間の経験を通してわかったことは、広範囲の生物に効果をもつ殺虫剤は、複雑な食物網で構成されている生態系を混乱させること、そして伝統的な水稲生産システムこそが、自然のバランスを維持し、害虫の大発生を避ける上でもっとも適切な方法であるということである。

このように、殺虫剤だけに依存した害虫防除が成功しないことは明らかであり、現在もIPMに向けた努力が払われているにもかかわらず、現実には殺虫剤の使用量は減っていない。それは、先進国にあるような殺虫剤の使用と販売に関する規制が開発途上国では整備されておらず、殺虫剤が 「日用消費財」 としての市場戦略によって販売されていることが原因である。

以上のように、本報告書では、熱帯アジアの水稲生産システム上の問題点を水田生態系における無脊椎動物の働きに注目して整理した上で、次に示すような改善方策を提案している。すなわち、政策的な対応としては、農薬宣伝の規制、処方箋による農薬購入制度の導入、IPMに関する教育訓練の普及など、また今後必要となる研究開発としては、殺虫剤・肥料・抵抗性発達のモニタリング、害虫および天敵の状況に関する定期的モニタリング、無脊椎動物の多様性および食物網の構造と機能に関する研究、栽培イネの遺伝的多様性の強化など、また期待される国際的支援としては、無脊椎動物の多様性研究、分類学や生態学等の専門家養成、分類学研究室の設置、遠距離顕微鏡システムなどを利用した分類同定ネットワークの構築などである。

なお、本報告書のレビュー委員会の委員を日本から桐谷圭治氏が委嘱されている。桐谷氏は農業環境技術研究所の名誉研究員で、長年、総合的病害虫管理(IPM)や総合的生物多様性管理(IBM)に関わり、 “「ただの虫」を無視しない農業”(築地書館) など多くの著書がある。ここに紹介したFAOの報告書においても、桐谷氏の害虫防除に対するIPMやIBMなどの考え方や姿勢がよく活かされている。

おもな目次

Executive summary (要約)

I.   Introduction (はじめに)

II.  Invertebrates in rice-based production systems from an historical perspective (歴史的考察)

III. Current understanding of invertebrates in the rice systems (現在の知見)

IV. Regional analysis of the most relevant invertebrate species in rice ecosystem (地域ごとの最重要種の分析)

V.   Areas under risk of critical loss of invertebrate diversity and related ecosystem services (生物多様性および関連生態系サービスが消滅するリスク)

VI. Current constraints and opportunities (制約と機会)

VII. Looking forward: Preparing for the future (期待:将来への準備)

VIII. Conclusions (結論)

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